戦国武将に学ぶ経営のヒント(第23回)

現代でも通じる黒田官兵衛の部下の使い方

2017.04.18

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 群雄が割拠し、幾多の戦いが繰り広げられた戦国時代。その中でも最高の軍師との呼び声が高いのが黒田官兵衛です。

 あの豊臣秀吉が「さも末恐ろしきは、官兵衛よ」と言ったというエピソードだけでも、官兵衛のすごさが伝わってきます。

 1546年、播磨国(現・兵庫県)姫路に官兵衛は生まれました。父は、播磨の大名・小寺政職に仕える黒田職隆。官兵衛も、幼少の頃から近習として政職に仕えます。

 官兵衛は6歳の頃から浄土宗の僧・円満和尚の下で勉学に励むようになりました。文学青年だった官兵衛は「源氏物語」などに興味を示しますが、円満はこれをいさめ、武士としての心得を授けます。ここで兵法学に親しんだことが、後の官兵衛の礎となります。

 官兵衛は1567年に家督を継ぎ、姫路城を守る姫路城代に。そして1575年に織田信長に謁見し、秀吉の配下に入りました。

 官兵衛が軍師としての才を示し始めたのは、1581年、秀吉の中国攻めに帯同した時のことです。秀吉はその前年から因幡国(現・鳥取県)の鳥取城に攻め入っていましたが、激しい抵抗に遭い退却していました。そして翌年、2万の兵を率いて再び鳥取城に迫ります。

 毛利家の重臣・吉川経家が守る鳥取城を攻め落とす方策は何かないか――。

 ここで官兵衛は兵糧攻めを秀吉に献策します。それを採用した秀吉は米を高値で買い占めて周辺を米不足に陥らせます。さらに城周辺の村を襲撃して村人を鳥取城に追い込み、城内での食糧消費を加速させます。

 この策によって城内の食糧は底を突き、草を食べるような状況になりました。草も尽きると壁に塗り込められたわらまで口にするような極限状態に陥ります。この「鳥取の飢え殺し」として知られる徹底的な兵糧攻めにより、3カ月で鳥取城は落城。官兵衛は軍師として一目置かれることになりました。

危機に冷静な献策をして軍師の役割を果たす… 続きを読む

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