戦国武将に学ぶ経営のヒント(第33回)

中途入社で異例の大出世を果たした光秀の誤算

2018.02.13

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 明智光秀といえば、本能寺の変を思い起こす人も多いことでしょう。光秀がそれまで忠誠を尽くしてきた主君の織田信長を討った本能寺の変はその動機が今でも謎とされており、近年でも映画で取り上げられるなど、人々の関心を引き続けています。

 明智光秀は1528年、東美濃(現・岐阜県)の明智城を本拠とする明智光綱の子として生まれました(生年などに異説あり)。幼年時代、青年時代については詳しい資料が残されていないのですが、1556年に斉藤道三が嫡子・義龍と争った「長良川の戦い」のとき、義龍に明智城を攻められ、光秀の一族は離散してしまいます。

 その後、光秀は母の実家を頼ってまず若狭(現・福井県)に向かい、射撃の腕を買われて越前(現・福井県)の朝倉義景に召し抱えられました。このとき、通常の倍ほども離れた的に100弾すべて命中させ、そのうちの68発が真ん中の黒星を打ち抜いたといいますから、相当な腕前だったようです。これにより義景に仕えて過ごしますが、10年後の1566年、光秀の運命が動き始めます。

信長に認められ能力を発揮し、出世を続ける

 この年、13代将軍・足利義輝が京都で暗殺されました。弟の足利義昭は京都を脱け出し、自らを将軍として擁立して上洛するよう、各地の武将に求めます。信長に不信感を抱いていた義昭は朝倉氏を頼ってくるのですが、光秀は義昭の側近である細川藤孝と意気投合。藤孝を通じて義昭に仕えることになります。

 頼った朝倉義景が野心に欠けていることを見取った義昭は、信長に接近。光秀は、義昭と信長の仲介者として信長の家臣にもなります。これにより、光秀は室町幕府の幕臣として義昭に仕えつつ、信長の家臣でもあるという複雑な立場になりました。この時光秀は40歳前後でした。

 当時は、信長が後に謡ったように人生50年といわれた時代です。今なら、60歳代で新しい職場に“中途入社”したようなものです。同じ中途入社組である秀吉はこの時点で少し若い30代半ば。すでに信長のもとで15年くらい働き、武勲を上げています。

 高齢で中途入社した光秀。その活躍は目覚ましいものでした。1569年の信長の朝倉攻めでは、浅井長政の裏切りで危地に立たされますが、秀吉と共に防戦に成功。1571年の比叡山焼き打ちでは中心実行部隊として活躍。武功が認められた光秀は近江(現・滋賀県)滋賀郡を与えられ、坂本城の城主となります。秀吉は、この時期まだ領地を持っていないのですから、信長の光秀に対する評価の高さが分かります。

 光秀は、1575年に始まった丹波攻略においても、抵抗を続けたこの地域を4年かけて平定。信長から「丹波の国での働きは天下の面目を施した」と高く評価された光秀は丹波を領国として与えられ、丹波亀山城主となります。光秀を信任し、スピード出世をさせた信長。光秀のほうも「一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」と書き記すなど、忠誠を誓っていました。ですから、その後の展開はまさに青天のへきれきといっていいでしょう。

本能寺の変の後、味方を集められずに敗北… 続きを読む

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