戦国武将に学ぶ経営のヒント(第34回)失敗しても家を守り抜いた島津義久のリカバー力

歴史・名言

公開日:2018.03.13

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 2018年1月から放送されているNHK大河ドラマ「西郷どん」。この中で、主人公の西郷隆盛は、渡辺謙演じる島津斉彬(なりあきら)を生涯の師として仰ぎます。斉彬は、12世紀から続く名門・島津家の第28代当主に当たります。この島津家が勢力を九州一帯に広げ、最大版図を築いたのは第16代当主の島津義久の頃です。

 子どもの頃の義久は性格がおとなしく、周囲の評価では弟の義弘らのほうが後継者としてふさわしいと見る向きもありました。しかし義久の祖父で「島津家中興の祖」といわれた島津忠良は、「義久は三州の総大将としての材徳が備わっている」と評しました。その言葉通り義久は「大将としての徳」で島津家を率い、戦国の世を生き抜いて斉彬に至る道筋をつくったのです。

九州制覇に迫るも秀吉の前に屈服

 義久は、島津家の第15代当主・貴久の長男として1533年に生まれました。初陣は1554年、大隈国(現・福岡県)の岩剣城攻めでした。1556年に貴久の後を継いで島津家の第16代当主になると、弟の義弘、歳久、家久らと共に領土を広げていきます。

 1570年には東郷家・入来院家を下し薩摩国(現・鹿児島県)を統一。さらに1573年には大隅国、1577年には日向国(現・宮崎県)を統一し、三州の総大将となります。義久の勢いはこれに留まりません。1578年には豊後国(現・大分県)の大友家を耳川の戦いで破り、1584年には肥前(現・佐賀県)の龍造寺家との沖田畷の戦いに勝利。これにより、九州の大半を手中に収めることになります。

 広大な領土を有するようになった義久。しかし、ここで前に立ちはだかったのが豊臣秀吉です。

 大友家には耳川の戦いで勝利を収めたものの、その後も紛争が続いていました。この状況を利用し秀吉は、大名間の私闘を禁じる惣無事令(そうぶじれい)に抵触すると“いちゃもん”を付けてきました。これに対し義久は、惣無事令に従わないことを決断したため、秀吉は島津家討伐のために兵を向かわせます。

 秀吉と弟・秀長が九州征伐に出した兵は22万人。飛ぶ鳥落とす勢いで九州を制した島津家も次第に追い詰められていきました。そして、薩摩まで後退。反撃の可能性なしと見た義久は、出家して名を「龍伯」と改めて出家。秀吉の元を訪れて降伏の意を表します。

 秀吉も「一命を捨てて走り入ってきた」と義久の覚悟を見て取り、命を取ることなく赦免(しゃめん)しました。義久が降伏した後も弟の義弘らは抗戦を続けますが、義久が説得し、義弘らも降伏。新たに獲得した島津家の領土はほとんど没収されましたが、薩摩と大隈は秀吉から認められ、後の薩摩藩主としての島津家につながります。

西軍として戦い、家康にすごまれても………

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