現役時代にパッとしなかった選手が、監督として好成績を残す例は多い。しかし、選手としても監督としても実績を残せなかったのに、球団のフロントに入って成果を上げるという例は、故・根本陸夫氏くらいしかいないだろう。
根本氏は、1952年に近鉄パールズ(後の近鉄バファローズ、オリックス・バファローズ)に捕手として入団したが、6年間で一軍出場が186試合(年間平均で31試合)という、一流選手とは呼べない選手だった。
31歳で引退し、スカウト、コーチを経て67年に新体制の広島東洋カープで監督に就任。72年に退団した後、解説者を経て78年からは西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ、前身のクラウンライター・ライオンズを含む)でチームを指揮するなど都合11年間監督業に従事した。ただし、チームがAクラスになったのは1度きりというありさまであった。
ところが、西武ライオンズの球団スタッフとしてフロント入りすると、それまでは強豪とはいえなかった西武ライオンズ、福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)を好成績へと導いた。
選手としても監督してもさえなかった根本氏は、どうやって弱小チームを強豪に変えたのか?球史に名を残す「裏方」の偉人の技から、中小企業が大企業に打ち勝つ術を探る。
チームを去った後に仕事が評価されるタイプ
現役時代にこれといった成績が残せなかった根本氏ではあるが、面倒見の良い性格だったため、その人柄は球団から高く評価されていた。短い現役生活にピリオドを打つと、近鉄のスタッフとしてチームに残り、スカウトやマネジャー、コーチとしてチームに在籍し続けた。
1967年、根本氏は広島東洋カープの監督に就任する。初年度は3位という好成績を残すも、以降のシーズンはBクラスで、72年に広島を去る。とはいえ、根本氏は衣笠祥雄や山本浩二といった、後に広島を支える若手選手たちの育成に関わっており、そうした選手たちが1975年に広島を優勝に導いたことで、根本氏の評価は決して低くはなかった。
78年、根本氏に再び監督の声がかかり、西武ライオンズの前身であるクラウンライター・ライオンズの監督に就任。相変わらず監督としては大した成績は残せなかったが、球団の管理部長も兼任したことで、根本氏の「裏方」としての才能が本格的に発揮されることになる。
新規球団を強豪へと導く“暗躍”
1979年、クラウンライター・ライオンズは西武ライオンズへと名称を変え、本拠地も福岡から埼玉へと移転。それとともに、チームには大物選手が次々と訪れる。阪神からは田淵幸一氏、ロッテからはキャリア晩年の野村克也氏が入団。新人では、松沼博久・雅之の“松沼兄弟”を獲得した。
80年以降は、秋山幸二選手、石毛宏典選手、伊東勤選手、工藤公康選手、清原和博選手といった、後にライオンズの黄金時代を築いた選手たちが次々と入団している。しかし、こうした有力選手たちが、わざわざ新生球団を訪れるわけがない。その背景には、根本氏の“暗躍”があった。… 続きを読む
執筆=峯 英一郎(studio woofoo)
ライター・キャリア&ITコンサルタント。IT企業から独立後、キャリア開発のセミナーやコンサルティング、さまざまな分野・ポジションで活躍するビジネス・パーソンや企業を取材・執筆するなどメディア制作を行う。IT分野のコンサルティングや執筆にも注力している。
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