1960年9月10日、ローマオリンピックの大会最終競技として行われたマラソンは、暑さ対策として、オリンピック史上初の夜間のレースとなった。
夕刻、ミケランジェロが設計したカンピドリオ広場からスタートした選手たちは、コロッセオ、コンスタンティヌスの凱旋門など歴史的な建造物をたどるように競っていく。そうしてレースが進むうちに先頭集団のしんがりを走る選手をカメラが捉え始めた。機械仕掛けのような正確さで軽やかにストライドを刻んでいくその選手は裸足(はだし)だった。世界がアベベ・ビキラを知った瞬間だった。
レース後半、道の両側にかざされたたいまつが夜のアッピア旧街道を照らす中、アベベ選手は優勝候補を従えて、トップで走っていた。そしてラスト2キロの地点でスパートをかけ、ゴールであるコンスタンティヌスの凱旋門に向けてひた走る。その頃、記者席は大騒ぎだった。先頭を走るゼッケン11番の選手の名を知る記者が1人もいなかったからだ。
世界を驚かせたゴール後のストレッチ
アベベ選手は2時間15分16秒の世界新記録となるタイムでゴールテープを切った。そして、マラソンを裸足で走る無名の選手が優勝したという事実とともに、ゴールした後のアベベ選手の行動が世界中の人々を驚かせることになる。
アベベ選手は、駆け寄ってきた大会スタッフに抱きかかえられることもなく、落ち着いた様子で前屈して爪先に触れるといったストレッチをした後、その場で軽くジョギングを始めてみせたからだ。4年後の東京オリンピックでは独走し、2時間12分11秒の世界新記録を樹立。五輪史上初のマラソン2連覇を達成した。そしてゴール後、やはり、ほとんど疲れた表情さえ見せず、余裕たっぷりにレース後のストレッチをしてみせた。
アベベ選手は、ローマオリンピックの優勝記者会見で禁欲的な哲学者のような表情で次のように答えている。
エチオピアは貧しい国なので乗り物にも事欠いています。(略)ですから、みなどこにいくにも足だけが頼りです。40キロを走るなんてたいしたことではありません。
(アベベ・ビキラ「裸足の哲人」の栄光と悲劇の生涯 ティム・ジューダ著 秋山勝訳より)
毎日、片道20キロの道のりを走って職場へ… 続きを読む
執筆=藤本 信治(オフィス・グレン)
ライター。
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