アスリートに学ぶビジネス成功への軌跡(第25回)

サイレンススズカ どこまでも逃げ切る夢のブランド

2020.07.16

クリップについて

 1994年5月1日、F1・サンマリノGPでアイルトン・セナが事故死するという衝撃の出来事が起きた。この同じ日、遠く離れた北海道の牧場で1頭の小柄な牡馬が誕生する。この仔馬(こうま)こそが、のちに“伝説の逃げ馬”となるサイレンススズカであった。

 音速の貴公子と呼ばれ、ポールポジションから常に先頭を走って勝ち切るセナ。サイレンススズカもスタート直後から先頭に立ち、後続馬を大きく離して逃げ切る“ポール・トゥ・ウィン”のスタイルをターフ上で体現した馬だった。

 そのレースぶりと、セナが逝った5月1日に生まれたこと、鈴鹿サーキットに通じるスズカの名、そしてレース中の突然の別れ……。もちろん、すべてが偶然だ。しかしどれほど偶然の仕業であったとしても、自然とセナのイメージに重ねるファンは多く、また重ねないファンにとっても、セナに似た圧倒的で悲劇的な要素が現在まで続く“夢”を形作っていることは間違いない。

「伝説の逃げ馬」の原石が磨かれるまで

 競走馬にはさまざまなタイプがある。最初から先頭を走るのが得意な馬も入れば、そうした先行馬を追走して最後に力を出す馬もいる。中には、後方でじっくり構えて、最後の直線でごぼう抜きを狙う馬もいる。

 サイレンススズカは、スタート直後から先頭に立つ。周囲の馬とは比較にならないスピードで加速して、2番手に10馬身超えの大差をつける大逃げを打ち、最後の直線に入っても後ろを寄せ付けず、影をも踏ませぬ圧倒的な逃げ切り勝ちを演じる。この姿に多くのファンが魅了された。とりわけ圧巻は1998年5月の金鯱賞(GII)。0秒1前後の差で決着するのが当たり前の競馬の世界で、2着に1.8秒というまさに“圧逃”の勝利を見せつけた。

 とはいえサイレンススズカも、デビュー当初からその爆発的な強さを身に付けていたわけではない。1997年2月の新馬戦こそ圧勝したものの、次戦はスタート前にゲートをくぐり、レースも大きく出遅れ。気性の悪さが能力の開花を妨げていた。その春はダービーに出走するものの逃げることなく9着、秋もGIに連続挑戦したが、大観衆を前に激しくイレ込むなどまだまだ若さが目立っていた。

 デビュー前から能力の高さを評価されながら、伸び切れなかった1997年も終わりに近づいたある日。サイレンススズカを管理する橋田満調教師に、1人のトップジョッキーが「僕に乗せてくれませんか」と声をかけた。

 1987年にデビューして瞬く間にトップジョッキーに上り詰め、1997年当時は1992年から5年連続でJRA年間最多勝利騎手となっていた武豊騎手。騎乗依頼を待つスタンスを貫いていた武騎手が、自ら働きかけてまで乗りたかった馬がサイレンススズカだった。

 騎乗が実現した12月の香港国際カップでは5着に敗れたものの、武騎手は手応えをつかむ。

 年が明けて1998年。気性の落ち着きが見られ始めたサイレンススズカと武騎手のコンビは「ハイペースで大逃げ」で連勝を重ねる。

「スタートからスピードの違いで先頭を走り、道中はスピードを維持しながらしっかり折り合ってリズム良く進み、最後の末脚は追い込み馬よりも切れる……究極の強さを追い求めれば、行き着くのはそこです。そして、サイレンススズカは、それを実践できたサラブレッドでした」
(『名馬たちに教わったこと ~勝負師の極意III~』武豊 著)

「理想のサラブレッドです」
(『Sports Graphic Number』689号、「1分56秒──理想のサラブレッド、サイレンススズカ」より)

 多くの逃げ馬は、スタートから飛ばして先頭に躍り出るものの、最後はバテて馬群に沈む……そのイメージが一般的なものだった。ところがサイレンススズカは、圧巻のオーバーペースで飛ばしながらもバテずに、むしろ後続馬たちが先にバテて、やすやすと勝ってしまう。

 その「究極」「理想」の強さに、騎手も、競馬関係者も、そしてファンも夢を感じた。

夢の“最強馬”に人々が託した願い

 多くのファンは、それぞれの記憶の中にある“歴代最強馬”の面影にロマンを乗せ、大切に抱き続ける。

 ディープインパクトはGIを7つも勝っている。現役のアーモンドアイも2020年春時点で7勝しており、秋には芝GI歴代最多の8勝目を飾るかもしれない。いずれにせよ、最強馬アンケートをとるとGIに数多く勝利した名馬がずらりと並ぶ。

 サイレンススズカは、実はGIを1つしか勝っていない。それでも、現在もなお最強馬ランキング上位にその名前が登場する。数字をはるかに超えた「サイレンススズカ」というブランドは、それほどまでに根強い価値を生んでいる。

 その唯一のGI勝利が宝塚記念だ。このレース、運命のいたずらというべきか武騎手は先約の馬が決まっており、乗れなかった。通常、人気ランキング上位馬の“最高のレース”は勝利したGIであるのが当たり前。ところがサイレンススズカに関してアンケートをとると、評価が高いのは先の金鯱賞、そして何より宝塚記念の次に走ったGIIの毎日王冠である。

 1998年10月の毎日王冠は、GI並みの13万人という大観衆を東京競馬場に集めた。サイレンススズカが迎え撃ったのは、それぞれ前走に無敗でGIを制したエルコンドルパサーとグラスワンダーである。エルコンドルパサーはこの翌月ジャパンカップを勝ち、さらに翌年にはフランスの凱旋門賞で2着に入った。またグラスワンダーはこの年と翌年の有馬記念を連覇。共に歴史的名馬だ。

 このレースで、サイレンススズカは2頭よりも重い斤量を背負いながら、圧巻の逃げ切りを披露。無敗の2頭を相手にしない横綱ぶりから、多くのファンの脳裏に“最高のレース”として刻まれた。

 その3週間後、11月1日。東京競馬場第11レース、GI・天皇賞(秋)。すべてのコーナーを「1」番手に駆け抜けるレース展開で「1」着を続けてきたサイレンススズカ。この日のゲートは1枠1番、単勝オッズは断然1番人気の1倍台(1.2倍)で、まさに「1」がずらりと並んだ。

 いつもを上回る超ハイペースで、他馬のはるか先を逃走するサイレンススズカ。このままゴールまで先頭を駆け抜ける、その夢が確信に変わりつつあった4コーナー手前で、突然の失速。

 その瞬間、みんなの夢は止まり、中ぶらりんになった。

 サイレンススズカは左前脚の手根骨粉砕骨折で、直後に安楽死とされた。この出来事は、武騎手の心に深い傷を残す。レース後には「(ケガの原因は)わからないのではなく、ない」と吐き捨て、その夜は生まれて初めて泥酔したというエピソードも伝わっている。

「20年経った今でも、彼のことを思い出すと、喉に刺さった棘のようにちくりと胸が傷みます。(中略)今でもまだ、その傷口は膿んでいて、瘡蓋をはがすと、血が噴き出してきます」
(『名馬たちに教わったこと ~勝負師の極意III~』武豊 著)

 サイレンススズカが勝利した翌年、1999年の宝塚記念。実況を務めた杉本清さんは、レース前にこう語りかけた。

 「いつまでも、そしてどこまでも先頭だった、1年前のサイレンススズカのゴールが、思い出されます。(中略)私の夢は、サイレンススズカです」

 GIの戦績だけ見れば、他の名馬たちには及ばない。にもかかわらず、武騎手をはじめ多くの競馬関係者、そしてファンの心に宿り続ける「サイレンススズカ」という夢のブランド。そこには原石を磨いた人々の努力と、ファンの思いが一緒になって作り上げた、他の何物にも代えがたいオンリーワンの価値が間違いなく存在し、今も光を放っている。データや記録に表れない価値。ビジネスにおいてブランドを確立する際には、そんな道もあることを覚えておきたい。

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執筆=斉藤 俊

執筆=斉藤 俊

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